まったく新しいお店・会社探し

三雲クリニック

草津線 三雲駅~歩4分. 内科なら何でも

5/21(火) 二十四節気の小満(太陽黄経60°)、陰暦四月の中気にあたる。今日はまさしく翠雨の季節

日々のあれこれ2019年04月14日
#103) 60年前頃を回顧して—その2

【左】日産セドリック 1960年式。【右】ダイハツ・ミゼット 1957-1959年式(ウィキペディアより画像拝借)

 

 母の実家の御先祖は高槻の大塚村の庄屋か何かで、淀川の渡し舟の権利も持っていたらしい。しかし、維新後は渡し舟業に見切りを付け、昭和の初め頃に阪急電車(当時は「新京阪」と呼ばれた)が高槻の八丁畷に開発した新興住宅街に居を構えたものと思われる。祖父は高槻の成合に山を持ち、砕石業を営んでいた。当時は戦後の復興事業でかなり羽振りが良かったのではなかろうか。線路の道床だけでなく、道路の舗装にもバラス(砕石)が使われていたから。アスファルトなんてのは未だ無かったのだ。

 

 母の実家へ行くと叔父(「おじうえ」と呼んでいた)が私を可愛がってくれた。膝の上に座っていると、缶入りピース(両切り)を何とも魅力的な香りを漂わせて味わいつつ、芳香のする煙を頭の上から吹きかけてくれるのだった。後年、私が缶入りピースにハマった所以である。

 

 はじめ叔父上は大型の単車に乗って砕石業の山へ通っていた。昭和35年(1960)に日産セドリック(初代)が発売されるや、単車をやめて、美しい白黒ツートーン車に乗り換えた。縦型4灯式の「カッコええ」クルマだった(上掲写真参照)。後ろ姿も絵になった(#102 のアイキャッチ写真)。

 

 このセドリックに何度か乗せてもらった。当時、国道171号は「産業道路」と呼ばれ、完全コンクリート舗装で、殆どクルマは走っていなくて広々とし、周りは田んぼばかりで、まるで滑走路を転がしているような快感だった。大抵は京都の伏見あたりまで行って引き返すか、枚方方面へ走り枚方大橋を越えて高槻へ戻る、といったコースだった。

 

 当時、走っている車といえば、路線バス、郵便トラック、日通(日本通運)のトラックと三輪トラック、トヨペット・クラウンのタクシー、くらいしか無かったと思う。ダイハツ・ミゼットという超軽量の三輪自動車の発売が昭和32年(1957)らしい。

 そろばん塾の先生が最初期のバーハンドル式ミゼットに乗っておられた(上の写真)。ドアは無く、またがって乗る単座式だから単車に幌屋根と荷台を付けただけみたいな車だった。2年後にはドアも付いて、丸形ハンドルになった。そろばん塾帰りに乗せてもらって帰宅するのが毎度のことだった。こんな軽三輪車が全国に普及するのは昭和30年代の後半からではなかろうか。

 

 今年はまだ寒い朝晩が続くが、4月11日には今年初のツバメを見た。色形や、独特の飛ぶ姿から間違いなくツバメだと思う。実際、二十四節気「清明」の初候(七十二候の「初候・次候・末候」のうち初候)は「玄鳥至」であり、ツバメが渡ってくる季節なのだ。今年の寒さはツバメにも気の毒だ。

 

 また、4月13日(土)は交通事故(ブログ #98、#99 参照)から22週間が経ち、長引いた手首の痛みもさすがに完治した。タオルも雑巾もしっかり絞り切ることができる。PETボトルの蓋も難なく開けられる。首は今でも凝りやすい傾向があるけれど...。太短い首だからムチ打ちになり難いのだ、と信じ込んでいたけれど、どうやら今年2月ころには首が凝って凝って吐き気がすることさえあったのは、ムチ打ちの一種だったかもしれない。

 

 平成から令和へまもなく変わる。陛下の崩御ではなく、お元気なうちに御退位されることにより、暗い気持ちで改元を迎えるのではなく、何らかの期待をもって寿ぎたくなる改元だから、これからもこうあって欲しいと思う。幕末のようにコロコロと改元する必要はないけれど、一代の天皇の在位を象徴する一元号は佳き伝統としてあってほしい。