日々のあれこれ2019年04月27日
#104) 草津線高山踏切 昭和26年5月2日

【左】上り列車が長い築堤上を左にカーブして高山踏切に接近中。左の電柱の足元に供養塚。【右】慰霊の石碑(甲西中学の名を刻む)と五輪塔型の供養塔と閼伽水供え6名分。2018.06.16撮影

 

毎週木曜日に甲賀市水口の特別養護老人ホームへ往診するが、その往復には、野洲川に架かる横田橋を渡ることなく、杣川(そまがわ)とJR草津線に挟まれた杣街道を通ることにしている。途中、草津線が大きくカーブして杣川鉄橋を渡る直ぐ手前に高山踏切がある。この踏切を渡るときに、小さな供養塔と閼伽水(あかみず)供えのための湯飲み6個が目に入る。この踏切で6人もの方が亡くなったのだと思い、そっと手を合わせながら通過する。

 

いつ、どんな事故で、6人もの命が失われたのだろうと永らく想っていた。ネット検索で偶然見つけたのが、『瑣事加減(さじかげん)』というブログの記事、【草津線高山踏切オート三輪衝突事故(1)、(2)】である。

 

ブログ氏は、甲西中学教員・兼・三雲村永照院住職であった高木進正(たかぎ しんしょう)氏が『現代民話考』に寄稿した文章を手掛かりとして、朝日新聞縮刷版を検索することにより事故の報道記事を見出した。新聞報道や関係者の情報などを総合すると、事故の詳細は次のとおり。

 

昭和26年5月2日午後3時ごろ、草津線高山踏切で、京都市下京区中堂寺町・日新運送(株)の石井照男運転手(28)が、オート三輪に遠足帰りの甲賀郡岩根村菩提寺・甲西中学校の3年女子生徒8名を便乗させ中学に連れて帰る途中、上り京都発鳥羽行740列車にはねられ生徒5名が即死、入院後1名が死亡、2名は重傷を負った。運転手は危篤。

 

そう、きょう令和元年5月2日(2019)は、事故からちょうど68年が経ったその日なのである。

 

それにしても、ブログ氏が指摘するとおり、見通しの良い踏切でなぜ事故が起きたのか? 重傷者はその後どうなったのか? 危篤の運転手はどうなったのか? 等々疑問は山ほど残る。

 

当時はアスファルト舗装などされているはずもなく、でこぼこ道であったろう。また踏切は枕木を横に並べて固定しただけの簡易な造りで、オート三輪1台がギリギリ通れる幅しか無かっただろう。あるいは、遮断機も警報機も無かったのではなかろうか。それほど見通しの良い踏切なのだから。

 

ギリギリの道幅の踏切で線路と線路のくぼみに落輪したのだろうか? それでも中学3年の女子生徒ならオート三輪の荷台から飛び降りて脱出することは出来たはずなのに、なぜ8人もが死傷したのだろう?  

オート三輪の運転手も脱出する余裕はあったろうに、と思う。

 

ウィキペディア「草津線」によると、草津線の全線電化は1980年(昭和55年)なので、事故当時はもちろん非電化。また、気動車の導入が1956年(昭和31年)ころから始まった、とある。ゆえに、事故当時の京都発鳥羽行列車というのは蒸気機関車D51,C57, C58, C51 など重量級の蒸気機関車が牽く列車であったと推察される。

 

脱出する余裕もないほど列車の直前に飛び込んだような事態であれば、重量級SLの前にオート三輪なんかひとたまりもないだろう。

 

今年の記念日(命日)に現地で供養が行われた否かは知らないけれど、供養塔や閼伽水湯呑は普段は全く忘れられた存在のように思える。忘れられているがゆえに夏草に深く覆われていることが多く、そのおかげで去年の猛烈な台風のときにも吹き飛ばされずに済んだ。

 

しかし、冬枯れの季節は丸裸で北西の季節風にさらされ、湯呑茶碗が吹き飛ばされていた。それでも誰か奇特なお方が居られるのか、あるとき6つの茶碗が逆さに伏せて並べられていた。そのおかげで、最近は強風に吹き飛ばされることなく、供養塚の体裁を保っていた。

 

もしも事故の負傷者が存命であったとしたら、いま83歳ほどでおられるはず。亡くなった生徒の親御さんらは既に亡くなられたか、あるいは、超高齢のため現地で供養なども難しくなっているに違いない。

 

戦後まもない頃の、また甲西中学創立まもない頃の、大事故として甲西中学の歴史に刻まれていればよいのだが、学校の沿革などを見ても一切言及されることがないらしい。

 

この事故の証言を『現代民話考』で文章に残された元教員の高木進正氏は三雲に在る永照院住職を兼任されていたが、既に他界されており、もはや詳しい情報を得ることはできない。

 

拙ブログ記事が地域の関係者の記憶を呼び覚まして、事故のことを今後に継承してもらえれば幸いと思う。

 

<追記  令和元年(2019)5月9日>

この事故死者らの命日 5/2 から1週間後の今日 5/9 に、普段どおり甲賀市水口にある特養ホームへ往診に出かけた。往路で踏切を通過するときにちらりと見ると、新しい供花が目に入った。帰路に、踏切脇の空き地に車を停め、簡単ながら慰霊碑にお参りした。閼伽水6名分がきちんと横一列に並べられ、季節のお花が供えてあった。事故後68年の今でも慰霊祭は為されているのだと思い嬉しくなった。合掌叩頭し、写真を撮らせてもらった。