日々のあれこれ2019年04月14日
#102) 60年前頃を回顧して—その1

いま滋賀県では野原に一斉に咲きほこる桜花が見事だ。今年は「清明」になっても寒い朝晩が続き、三雲では4月3日に薄っすら積雪があった。東京でも4月10日には雪が積もったらしい。

 その4月10日こそは今上陛下のご成婚60周年記念日だった。つまり、昭和34年(1959)に皇太子さま(当時)は正田美智子さまと結婚され、御所から東宮まで馬車でパレードされた。当時、我が家にTVが在ったか否かは覚えていないが、TV中継を視た記憶はある。昭和24年1月生まれの私は10歳だった。

 

 今年、満70歳を迎えて、「古希なんて昔の話、今や鼻たれ小僧だ」とブログ#100)で書いたばかりだが、さすがに「寄る年波」というやつで、体力の衰えは外観にも露呈してしまう。まあ、60年前頃を回顧する気になっても許してもらえる年齢と言えるだろう。

 

 昭和30年代前半と言えば、日本は未だ未だ貧しかった。チキンラーメンの発売から昨年で60周年だった。しかし、当時のガキ坊主たちにそんなお金があろうはずは無く、発売から半年くらい経って駄菓子屋にチキンラーメンの割れくずが小さなセロハン袋(外装の印刷など何もなし。スッピンの透明袋)に入って売られていた。ときどきそれを買うくらいだったが、おやつとして美味しかった。

 

 我が家は大阪府のド田舎、北河内郡交野町だった。最寄りの駅は国鉄片町線の津田駅で、いちおう電化されていたが、四条畷以北は単線で、1時間に1本くらいしか無かったように思う。また、蒸気機関車C11の牽く貨物列車が定期便として走っていた。

 上水道もまだ無く、井戸水をガッチャン・ポンプで汲み上げていた。私の日課は薪割り、風呂への水くみ、風呂焚きだった。薪割りは名人級、火をおこすのも達者だったと思う。

 当時はいまよりも寒冷で、家の中でも氷が張っていた。通学は農道だったので、牛が通せんぼすることも屡々。冬は霜柱を踏みながらの通学だった。私は毎冬、しもやけで悩まされた。

 

 家庭のテレビは未だ普及しておらず、阪急高槻駅前の公園には街頭テレビなるものがあって、プロレス中継などは人だかりがすごかった。交野の田舎には街頭テレビなんぞ無く、たまに町へ出た時しか見れなかった。

 ごくたまに津田駅から京橋まで片町線、京橋から大阪までは城東線(まだ環状線として繋がっていなかった)に乗って梅田の阪急百貨店へ連れて行ってもらった。大食堂で食べるホットケーキが最上の御馳走だった。