ウィリアム・メレル・ヴォーリズ氏は近江兄弟社を通じて布教活動に打ち込んだ。そのデザインのセンスでもって豊かな装飾性と実用性を兼ね備えた建築の設計にも携わった。ヴォーリズがアカデミア建築を設計した有名な事例は神戸女学院だろう。そこは、のちに夫人となった一柳子爵家の令嬢・満喜子さんの母校でもあり、キリスト教系学校でもあるから、その縁で全キャンパスを通じて統一感のあるデザインを任されたのだろう。
ならば、大阪高等医専(大阪医大の前身)の場合は誰がヴォーリズに縁があったのだろう? 大阪医大の沿革などを見ても何も言及されていない。まあ、高等医専の創設者の中の誰かが先覚者の感覚を備えていたのだろう。
昭和2年頃、辺りは未だ未だ何もない田舎だった高槻市八丁畷の地に、全建物をサラセン様式で統一した斬新さは目を見張るものだったに違いない。その辺りの古写真は、大阪医大HP⇒大学紹介⇒歴史・沿革と進めば見ることができる。また、大阪医科大学歴史資料館⇒歴史資料館について⇒年表と進んでも古写真を見ることができる。
それら古写真によると、私が幼少期に何度か(重度の喘息発作で)救急外来に担ぎ込まれた記憶のある、初代の大学附属病院もサラセン様式だった。寝かされた外来ベッドから見上げた真っ白な天井と、病院玄関の外観はかすかに見覚えがある。母の実家が八丁畷にあったので、子供の頃から大阪医大には縁があったのだ。
私が学んだ頃には本館、解剖館、別館など多数のヴォーリズ建築が並んでいた。掲げた写真は解剖館。左右両翼から階段で2階に上がると正面に、壁龕みたいな、モスクの礼拝所みたいな、窪みがあり、献体者への慰霊の場となっていた。2階には広い解剖実習室があり、思い出の多い建物だった。
しかし、現在残っているのは別館だけとなっている。この中の急峻な階段教室で入学式も行われ、基礎医学の講義も受けた記憶がある。現在、別館は歴史資料館として復元整備され、国指定の有形文化財として登録されている。別館に関しては大阪医大のウェブサイトよりも、学外のヴォーリズ建築愛好家のブログの方が綺麗な写真をたくさん載せてくれている。例えば、gipsymania氏のブログ『ヴォーリズを訪ねて』を覗いてみられるとよい。
三雲クリニック
12/7(土) 大雪(黄経255°)次は冬至です。日本人の免疫力落ちてます。打ったらあかん‼ コロ・ワクは毒チンやでぇ❕