日付が 6/1 に変わった頃、あるweb記事に目が止まった。5/31付け神戸新聞の記事『姿を消した伊藤博文像 説明板で数奇な運命紹介へ』だ。<戦中まで神戸市中央区の大倉山公園に立ち、現在は台座のみが残る初代兵庫県知事、伊藤博文の銅像について知ってもらおうと、神戸市が周辺を整備している>との内容。
そんな遺構があったとは全く知らなかった。但し、<実はこの台座の上にあった銅像は2代目>であり、初代銅像は<湊川神社本殿横に設置された翌年、日露戦争の講和条約の内容に不満を募らせた民衆に引き倒され、姿を消した>という。この事件の顛末は[伊藤博文-Wikipedia]の「銅像」に記されている。
像が廃されたのを惜しみ、伊藤と親交のあった大倉財閥創始者、大倉喜八郎(あのホテルオークラの)が自分の神戸別邸の土地に2代目銅像を立て、その土地を大倉山公園として神戸市に寄付したという。ところが、戦時中の金属供出の憂き目に遭って銅像は無くなり、台座だけが残っている。
銅像と台座の全体像は、神戸市立中央図書館の広報紙『KOBEの本棚』77号で見ることができる(同紙のバックナンバーはPDFとしてweb上に公開されており、自由に閲覧できる)。77号では写真だけでなく、記事「大倉山と伊藤博文像台座」も読める。記事によると、台座の設計者は京都帝大初代建築学教授・武田五一であり、台座の姿形は、のちに建設された国会議事堂の尖塔に似ているが、それは偶然ではない、という。
なぜ似ているかといえば、国会議事堂の設計者である吉武東里(よしたけ とうり)は武田の愛弟子(まなでし)であり、師匠の伊藤公像台座のデザインを議事堂の尖塔に取り入れたから、とされる。伊藤が我国初の憲法制定や帝国議会制度創設に大きな貢献を為したことを顕彰してのデザインであった。
国会議事堂尖塔のエピソードは、瀧井一博『伊藤博文 知の政治家』(中公新書2010.4.25初刊)の「はしがき」にも書いてある。同書は、「伊藤博文について全容を知りたい」と思って今年4月に購入してあったのだが、新書版380ページほどもある大著で、なかなか時間も取れないゆえ、殆ど読み進めることが出来ていない。著者である瀧井氏は、同書により第32回サントリー学芸賞(政治・経済部門)を受賞されたとのことゆえ、「つんどく・積ん読」ではなく、是非とも深く読み解きたいと思っている。
伊藤については、拙ブログ#73)「神戸事件(補遺情報版)」で言及した。初代兵庫県知事に就いたのも、神戸事件において列強との交渉を実質的に進めたことへの論功行賞であろうと述べた。伊藤の国内政治や外交交渉における手腕を高く評価はするものの、「攘夷」「維新」については大きな疑問を抱かせる人物として私の心のわだかまりは解消できてはいない。とはいえ、「長州五傑」の中の随一の傑物だったには違いない。
三雲クリニック
12/7(土) 大雪(黄経255°)次は冬至です。日本人の免疫力落ちてます。打ったらあかん‼ コロ・ワクは毒チンやでぇ❕