日々のあれこれ2018年01月20日
#66) 神戸の大震災 東西移動困難

 震災後初の大阪への移動は、出雲空港から伊丹へ飛んだと記憶する。着陸前に見えたのは青色シートで覆われた屋根がどこまでも続く光景。空港ビルも天井板が脱落し、壁も無数にひび割れていた。滑走路もひび割れていたらしいが、突貫工事で修復した由。

 2回目以降はJR出雲市駅21:30頃始発―山陰線・福知山線経由―大阪駅07:10頃到着だった寝台急行「だいせん」を利用した。毎回2コマの非常勤講義を担っていたので、体力温存のためB寝台を取るようにしていた。震災後は予約が取りにくい状況が続いた。

 震災以前の「だいせん」はほぼ空気だけを運んでいた。つまり、いつ廃止になってもおかしくない不人気列車だった。ところが、震災で状況は一変した。

 山陽は新幹線も在来線も運休したから、広島や岡山の人々が関西やそれ以東へ行くには岡山から伯備線特急「やくも」で米子まで北上し、米子からだいせんで大阪入りするしかなかった。廃車寸前のおんぼろ寝台が俄然一番人気となったのだ。

 

 いまも思い出す。あの年(1995)の1・2月は寒かった。出雲市天神町233-4にあった医大宿舎から出雲市駅まで深い積雪で、わだちや足跡が再凍結しデコボコ・ゴリゴリ・ツルツルのひどい道を、大きな重いショルダーバッグを提げて駅へと何往復したことだろう。

 山陽新幹線・在来線の復旧工事が必死に行われた結果、同年4月上旬には再開通した。それによって、震災のあだ花「だいせん」は急速に客を失った。やがて寝台が廃止され、運転区間が短縮され、ついには2004.10.16廃止となった。無念、合掌。

 

 中国自動車道も大きな被害を受け、復旧には1年以上を要したように思う。震災以前から宝塚の大渋滞は毎日のことで、吹田ICから山陽道神戸JCTまでの区間は中国道1本しかない脆弱さ(ぜいじゃくさ)が指摘されていた。迂回路となる新名神が高槻JCTから神戸JCTまで計画されてはいたが、何の実態も無かった。何十年も無策のままだった。

 震災がその脆弱さ(迂回路なし)を露呈させた結果、ようやく高槻―神戸間の工事が始まったと言える。高槻JCT―川西IC間は2017.12.10に開通したが、宝塚工区では死亡事故が繰り返され今年度内の開通が危ぶまれる。

 

 人体の動脈も同じだが、1本しか動脈のないところでは、血栓症・梗塞が起こったときに迂回路が無いため閉塞箇所以遠の末梢組織は血液が来なくなって壊死(えし)に至る。道路も、動脈も、迂回路があって複数のルートが選択できるほうが頑健 Robust(ローバスト)な組織になる。ネットワーク(網の目構造)の重要さが再認識される。

 

 ちなみに今日1月20日は二十四節気の「大寒」(旧暦十二月の中気)。わが誕生日。