日々のあれこれ2022年08月15日
#126) 77年目の「終戦」記念日

 今日は2022年8月15日、敗戦の日です。戦後77年も経った、すごいですね。私は73歳で、「生まれてから もうすぐ3/4世紀も経つのか!」と想っているところですが、敗戦からは既に3/4世紀を過ぎてしまっているのですね。

 

 現代日本では8月15日は「終戦記念日」ということになっていますが、わが親父(8年前に99歳で病没)の実体験では終戦どころか9月20日頃までルソン島の山中を敗走につぐ敗走で、いつ戦死してもおかしくない日々を送っていたそうです。「大日本帝国が降参したからお前たち兵卒も投降せよ」という軍隊の指揮命令系統など現地には存在しないお粗末な状況だったものと思われます。だからこそ負けたんでしょうけれど…

 

 実際、グアム島の横井正一さんとか、ルパング島の小野田寛郎さんのように「終戦」を知らされず、戦後も長らく現地に取り残された元・日本兵も居たのが歴史の現実なのです。

 

 幸いなことに親父は強運の持ち主でした。軍医養成のために設置された大阪帝大・医学部附属臨時医学専門部を卒業して直ぐ奈良の連隊に配属され、まもなく連隊は京城(ソウル)に移動。敗戦の色濃い昭和19年12月に朝鮮半島の元山港(?)から秘密裏に出航。もちろん行先など一切を知らされず。

 

 米軍の潜水艦がうようよするバシー海峡を奇跡的に無事通過でき、クリスマス頃にルソン島に上陸したといいます。上陸後まもなく沖に大艦隊が到来し、「味方か?」と思って喜んでいたら、いきなりの艦砲射撃を浴びせられて沿岸部から山中に退避。

 

 その後は、敗走に次ぐ敗走。親父は「見習い軍医」として衛生兵らと伴に最前線へ傷病兵の搬送に駆けずり回ったそうです。味方が皆 撤退してゆくときに逆に最前線の弾丸降る中へ進むという過酷な状況を生き延びたというのです。衛生兵を何人も死なせてしまった、と後世悔やみ続けておりました。そして、漸く終戦を知らされて米軍に投降したのは9月20日頃だったそうです。

 

 ちなみに「見習い軍医」だったのは、帝大医学部卒ではなく臨時医専卒だったからですが、親父の場合は戦時中に正式の軍医に昇格されていたそうですが、そのことを知らされたのは米軍捕虜生活を終えて昭和21年1月に引き上げ帰国した後のことだったと言います。ことほど左様に軍隊という組織は崩壊し、指揮命令系統も何も無かったというわけです。

 

 戦後は、精神科医でもあり歌人でもあった斎藤茂吉に傾倒したのか、アララギ派流の短歌を独学し、毎年終戦の季節になると戦死した同僚たちを悼む歌を詠んでは朝日歌壇、毎日歌壇などに投稿を続けていました。

 

 親父の作歌で全国紙の歌壇に採択されたものは数百首あると思います。それらの切り抜きを、親父が死んだときに私が預かったままになっています。なんとか時系列に整理して親父の『遺作集』を仕上げるつもりだったのですが、いままでサボったまま8年が過ぎました。

 

 今年3月に私自身が心筋梗塞で死にかけました。幸い、発症後すみやかに対処・治療して頂きましたから、今こうやってぴんぴん出来ていますが、いずれにせよあと数年しか動ける時間は無いと思いますから、少し少しでも着手せにゃ、と思うとります。

 

 私が生まれたのは日本国ではなく「被占領国日本」、英語では “The Occupied Japan”です。敗戦後から昭和27年(1952)4月28日のサンフランシスコ講和条約締結までの間、日本国には独立主権は無く進駐軍総司令部GHQの統治下にあったのです。

 

 敗戦直後は国内工業生産や供給さえ覚束なかったですが、昭和22年(1947)から昭和27年(1952)年までの5年間は民間貿易も再開され、日本国産の陶器やブリキおもちゃ等に ”Made in Occupied Japan”の銘が印刷あるいは刻印されていました。

 なんと! 現在ではこれらの輸出品は「MIOJ製品」としてビンテージ物の特別扱いをされる希少品になっているようです。たしかに70年前のものといえば、普通に生産された物でもビンテージですが、たった5年間だけの限定ラベルが付いているんだからコレクターにとっては垂涎の的なんでしょうね。

 

 ウクライナ戦争の渦中にあるいま、日本人全体が平和ボケしているのはひょっとすると米国の意図的な日本統治政策の成果かも?と思うのですが、戦争の当事国でないのは何よりも有難いことです。 戦没者(原爆死者、無差別空襲による死者、犬死させられた無数の兵卒たち、等)に瞑目合掌