日々のあれこれ2019年09月21日
#108) 開業5年目に入りブログも6万回読まれた;越前紀行

左)恐竜博物館、右)永平寺

  令和元年9月1日に当院は満4歳となり、5年目の診療を頑張っています。4年間の経験を積んできたからといって、決してマンネリに陥ることはありません。患者さんが毎日投げかけてくれる問題を解くことが刺激になり、新たな勉強の意欲が湧いてきます。

  開業1周年を機会に始めたブログも今回で第108回を迎えたわけですが、有難いことに累積アクセス回数が6万回を超えました。ご愛読いただいている方々に深く感謝を申し上げます。

 

  敬老の日の連休を利用して娘夫婦が福井県に連れてってくれた。行き先は福井県立恐竜博物館、永平寺、東尋坊の定番。幼児が居るので長時間の滞在は無理。私の興味から言えば行きたい所は多々あれど、私以外には興趣が湧かないだろうから再度の機会にします。

 

  今回の訪問先について感想を記す。先ずは恐竜博物館。嬉しいことに、70歳以上は常設展示は無料。福井県民でもないのに、有難いことだ。いよっ太っ腹、福井県!

  すごい迫力と緻密さを以て展示されている骨格標本を堪能できた。頭骨こそヒトとは随分違うが、肩甲骨や肋骨や骨盤の骨など基本形は同じだなぁ、と50年以上昔に学んだ解剖学を思い出しながら鑑賞した。白山山麓の九頭竜川や手取川の流域を恐竜が歩き回っていたと想像するのはワクワクする楽しみ。日本列島は未だ独立せず、東アジア大陸の一部だった時代。

  ミュージアム・ショップも充実しており、客で超満員だった。お金が無くても見るだけでも楽しめた。昼は、恐竜博の近くで、名物の越前そばとソースカツ丼を両方とも楽しめる欲張りメニューを食った。満足。

 

 

  九頭竜川に沿ってしばらく下り、約40年ぶりに永平寺へ。しかし、昔の光景を憶えていないので、どれほど変わったのか不明。永平寺の山号が吉祥山であることは今回はじめて知った。開山が道元禅師であることも再認識した。

  開山当時は深山幽谷に在っただろうけれど、いまや呆気ないほど門前町と接している。しかし、流石に曹洞宗の大本山。門を入れば厳しい禅修行の雰囲気が感じられる。僧堂や長い坂の廊下も質素で好感が持てる。廊下を進む度、角を曲がる度に、絵になる光景に出会う。「大正・昭和の浮世絵師」と称された川瀬巴水ならこの光景をどう表現してくれただろうなあ、なんて空想しながらの山内散策は楽しい。

 

  その日の宿は三国。永平寺から、豊かさの感じられる大平野を走り抜け、九頭竜川を渡って三国へ到着。実に平坦な土地で、だからこそ「九頭竜」と謡われるほど大河がのた打ち回っているのだろう。出雲の大河、斐伊川が「やまたのおろち」と例えられたのをふと想い起こした。いや、出雲平野よりも三国平野の方が格段にスケールが大きい。この豊かな地を治めていたのがあのオホド王、のちの継体天皇だったということを実感できた。

  三国に近づくと、文明開化を想わせる建築が目に飛び込んできた(アイキャッチ画像を参照)。龍翔館というのだそうで、明治初期に三国突堤を築いたオランダ人技師エッセルが設計した小学校を模して再現したものだとか。北前船で大いに繁栄した三国湊の財力と文化を象徴する建物で、三国の歴史資料館になっているらしい。街中には北前船の豪商らの館なども残っている。改めて出直すことにしたい。

  ちなみにエッセル技師は、だまし絵で有名なエッシャー(Maurits Cornelis Escher)の父親だそうだ。おそらく明治日本式の読み方が「エッセル」で、オランダ語本来の読み方が「エッシャー」なのだろうと推測する。そういう縁で、龍翔館にはだまし絵の展示もあるそうな。

  往時の三国湊は九頭竜河口の良港だったというが、今でも跡が残っているのだろうか? グーグル地図で見る限りでは、湊の遺構がよく分からない。日本海側の大河の河口によくある潟湖(せきこ)が湊になっていたのだろうか? これも資料館で確認したい疑問点だ。

 

  東尋坊は三国からほんの目と鼻の先だった。写真で予想していたよりも少し期待外れな印象だ。おそらく出雲の日御碕や隠岐の赤壁などを見てきた我々一家にすれば物足りないくらいの規模なのだろうと思う。柱状節理の太さは中々のものだとは思うけれど...