ざつがく 雑学2021年05月19日
#124) 大津事件130周年

130年前って、遥かな昔ではない

  今日は2021年5月18日。ちょうど1週間前の5月11日は大津事件から130周年の記念すべき日でした。私はいま72歳ですから130年の半分以上を生きていることになります。だから、大津事件(1891年、明治24年)といっても遠い昔の話とは思えないのです。桜田門外ノ変が約160年前(#77で言及)、明治維新が約150年前(#64, #73で言及)、というのも さほど遠い昔とは思えません。

  ただし、大津事件を普通(常識的)に解釈しようとは思いません。つまり、明治憲法下での司法独立権を守った、とかいうような解釈はどうもウソ臭く感じられるのです。私の興味はそんなところにはありません。大津事件を起こした津田三蔵巡査がロシア皇太子に切りかかった動機とされる「西南戦争戦没兵紀念碑」にあります。

  その西南戦争戦没兵紀念碑は三井寺観音堂の傍に事件当時は存在し、大津の第九連隊から出征し熊本や鹿児島の激戦地で没した440余名の滋賀県出身兵士たちの霊魂が、故国(湖国)随一の絶景を眺められるような一等地に建立されていたのです。その紀念碑はいま「一等地」から、小関越え近くの山中に移転させられ、人々の目から隠され、朽ちるに任されているのです。

 

紀念碑がひそかに移設されたわけとは?

  私の疑問は以下のようなものです。1)紀念碑はいつ移転させられたのか? 2)なぜ移転させられたのか? 3)移転に先駆けて市議会や県議会でどのような議論が為されたのか? 4)移設先の土地の選定はどのように決定されたのか? 選定の理由は何か? 5)碑が三井寺観音堂傍に在った頃は ― 毎年かあるいは定期的に ― 公的な慰霊祭が行われていたと推察するのだが、その公的記録は残っているか? 6)移設後は慰霊祭が行われた記録が在るか? 

  移設された現地も、移設された当時は湖を眺められたのではないか?と推察します(「一等地」に比べれば格段に見劣りはするけれども)。ところが、今は碑の前に樹々が繁茂し、何の景観も無い。とくに湖が見えないのは最悪です。湖国の戦没兵士ら、その遺族らに申し訳が無い。

津田三蔵巡査の紀念碑への思い入れ

  津田三蔵巡査は西南戦争で自ら被弾したものの、その後、戦線に復帰し、少なからぬ勲功により勲七等を授与されており、戦没した同僚らへの想いも強かったに違いないと察します。であればこそ、碑に敬意を払わなかったロシア人に敵愾心を燃やしたものと思います。

  私は、津田巡査とは違う観点から、紀念碑に格別の感慨を抱くものです。碑は「記念」ではなく、明確な意図を以て「紀念」と彫られているのです。この碑は、第二代滋賀県令(知事)・籠手田安定(こてだ・やすさだ、「あんじょう」とも)が西南戦争終結10周年を紀念して県内外の篤志を募り、建立に至ったもので、既述のとおり滋賀県随一の絶景たる三井寺観音堂傍に建立して戦没兵の御霊を慰めるものでした。紀念碑を囲む玉垣の門柱には真宗大谷派の大谷管長の名も刻まれています。

  私は、籠手田安定を敬愛しています。滋賀県知事、島根県知事、新潟県知事、そして再び滋賀県知事、を歴任し、惜しまれながら急逝した人で、元々は肥前平戸藩士で、名刀の使い手でもありました。島根県知事のときにラフカディオ・ハーンを英語教師として雇い入れたので、ハーン作品にも登場します。